悪魔を打ち砕く民話。辛く苦しい時にも心に希望と喜びがある生き方

またまたトルストイの話です。

トルストイは晩年東洋思想にも興味があったようで、おすすめできない作品もありますが、主キリストへの信仰にもとづいた良い作品もたくさんあると、やはり思います。

(※東洋思想は日本にはなじみ深いものですが、起源をたどると、驚くことに、悪魔崇拝に基づいているのです。

RAPTさんのブログより↓

「輪廻転生」の概念が悪魔から生まれた可能性について。または真に悟りを開いた人とはどんな人なのかについて。

〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。)

 

トルストイの、「愛のあるところに、神もある」という作品の中に、こんな大人が小さい頃の私の周りに大勢いたら、物事の捉え方がずいぶん違っただろうな…と思った、老人の台詞があります。

 

この作品の主人公の靴屋のマルトゥインは、子どもに恵まれず、悲しい思いをしてきました。

その後やっと授かった息子が大きくなり、これからが楽しみになりそうになった途端、病死してしまいます。そしてすっかり望みをなくして、神様にうらみを言うほどになってしまいます。

 

以下、『愛のあるところに、神もある』(トルストイ著)より引用です。

―マルトゥインはその老人とすっかり話し込んで、自分の悲しみを訴えはじめた。

「なぁ、巡礼さん、もう生きるのもいやになったよ。死ぬことだけが望みだ。ただそれだけを神様にお願いしている。わしは今では望みのない人間になってしまった。」

すると、老人がいった。

「そんなことをいってはいけないよ、マルトゥイン。神様のなさることに、わしらが文句をつけてはいけない。わしらの知恵ではなくて、神様のお考えで決まるのだ。あんたのむすこは死ぬように、あんたは生きるように神様がおきめになったのだよ。つまり、そのほうがいいということさ。あんたが望みをなくしているとすれば、それはあんたが自分の喜びのために生きようとしているからだよ。」

「それなら、なんのために生きればいいんだね?」

すると老人がいった。

「神様のために生きなければいけないのだよ、マルトゥイン。神様があんたに命を与えてくださっているのだから、神様のために生きなければいけないのさ。神様のために生きるようになれば、くよくよすることは何もなくなって、何もかも楽に思えてくるよ。」

―引用終わり

 

この中の、『あんたが望みをなくしているとすれば、それはあんたが自分の喜びのために生きようとしているからだよ。』と、『神様のために生きるようになれば、くよくよすることは何もなくなって、何もかも楽に思えてくるよ。』に、とても共感してしまいました。

 

そして、以下の聖書箇所を思い出しました。

私の大好きな、憧れのような気持ちを持っている箇所です。

一つ目は、新約聖書の『使徒の働き』の中で、ステパノという使徒が、迫害に遭うところです。

ステパノは捕らえられ、議会に連れていかれます。議会で証言するステパノを、迫害している人々がとうとう石で打ち殺してしまいます。想像するだけで非常に過酷な場面なのですが、この時、ステパノは聖霊に満たされていて、最後に、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と大声で叫んで、眠りについたそうなのです。

 

―こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」

そしてひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

新約聖書 使徒の働き7章59、60節-

 

 

また、以下の聖書箇所も思い出しました。

 

―「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に。ひとりは左に。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

新約聖書 ルカの福音書23章33、34節―

 

―信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

新約聖書 へブル12章2節―

 

 

信仰を持つ前の私は、何か嫌なことがあると、すぐにイライラしたり、嫌なことをした相手についてあれこれ考えたり、憎んだり、どうやって付き合っていけばいいか悩んだり…。

でも、イエス様やステパノは、自分を殺そうとしている相手のことを、「罪を負わせないでください」「父よ。彼らをお赦しください」と祈ったんですよね。

一体どういう境地にいるのだろう…とただただ驚き、何か本当に悪い気持ちや、罪から解放されていて自由であり、この世の中一般の人間とは全く別の次元にいるんだなと、憧れの気持ちを抱いてしまいます。

 

イエス様やステパノが、神様の御心通りにこの上なく素晴らしい人生を生きて、想像を絶する迫害に遭われたことと、私の日々のちっぽけな個人的な苦しみとは、全然次元が違う話なので、もう全く関連性がないと言ってもいいくらいなのですが、

トルストイのこの短編の老人の台詞から、ともすれば、私が個人的なちっぽけな願いに囚われがちになることを思い、そしてこの聖書箇所を思い出し、

 

イエス様やステパノが、自分の前に置かれた艱難、苦難をものともせず、神様を愛する喜び、神様のために生きる喜びに溢れている、そのことに改めて驚嘆し、憧れを抱き…、そして感動しました。

艱難、苦難をものともせず、というより、本当に物事の認識が丸ごと違うんだな…と思います。

 

それで、そんなことを思っていたら、私の心がとてもとても晴れやかになったのでした。

 

特に、私の期待を常に裏切り続ける息子に対する私の思い、「普通の子になって欲しい」という私の欲・願望が、日常生活の中にひょっこり顔を出して苦しくなることがありますが、全てを神様にゆだねて、とにかく、神様の御言葉を守ること、神様から離れないことを大切に、一瞬一瞬を過ごすことを思っていたら、神様と一緒にいることの喜びがこんこんと溢れてきました。

 

 

RAPTさんのブログの有料記事で、愛について書かれたものがあります。自閉症の息子に対してどうしていいか迷ってばかりの私にとって、とてもとても必要な御言葉でした。

愛という言葉はよく使われていますが、この世の中では、結構適当に、曖昧に使われているのではないでしょうか。以下の記事、ぜひお読みになることをおすすめします!

RAPT有料記事120(2016年11月14日)神様を愛する資格があるのは誰か。本当の愛とは何か。なぜ主の前では多くのものを捨てなければならないのか。

 

また、愛とは、そして情とは何か、ということについても、以下の記事に書かれていて、心がとても楽になりました。ぜひぜひ読んでみてください。

RAPT有料記事130(2016年12月19日)我々の成功は主の成功だ。

 

また、トルストイの書いた民話に戻りますが、「イワンのばか」以外にも、悪魔との闘いの話がいくつかありました。

『悪魔のしわざはみごとでも、神のしわざはゆるがない』

『小さなろうそく』

『ちんぴら悪魔がパンの端のつぐないをした話』

などなど。

 

これらを読んで、私たち人間に罪を犯させたい悪魔の性質がよく書いてあるなと思いました。

悪魔は、いつもいつも私たちを誘惑し、挑発します。怠惰にしたり、空しい娯楽、快楽にふけらせたり、また周囲の人に対する怒りや、憎しみを抱かせたり…。とにかく私たちが罪を犯すように、仕向けてくるのです。

本当の敵は目に見えないから、やっかいです。

悪魔は、とにかく、神様のために生きる時間、本当に意義のある、素晴らしい時間を奪おうとするのです。

私たちの人生を無意味に、無価値にすること、膨大な時間を無駄遣いさせることを望んでいるのが悪魔です。

そして、悪魔の最終的な目的は、罪を犯させて私たちに蠅のようにむらがり、私たちを本当の神様から引き離し、地獄に道連れにすることなのです。

悪魔的なテレビを見たり、一時的な娯楽を興じる時間、またイライラしたり、悩んだり、怒りに囚われている時間を、神様へのお祈りの時間に、聖書を読む時間に変えたら、本当に本当に心が変わってきます。

 

―私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(新約聖書 エペソ6章12節)―

 

RAPTさんのブログに、悪魔との闘いに勝つための記事がたくさんあります。例えば↓(無料です)

一人一人が悪魔の誘惑に打ち勝つことが、この世界を変えることになります。先ずは自分のためにお祈りしてみてください。

 

悪魔を拝んで人生を破壊する生き方から、神様を拝んで人生を幸福にする生き方へ。

子ども達に、わかったようなわからないような、漠然、曖昧とした教えではなくて、本当の神様からの本当の真理を伝えていきたいものです。

そしてそのような、真理が溢れる教育、文化、芸術などなど…を、つくっていきたいものです!

 

上記に書いたトルストイの短編が入っている本です↓

トルストイの民話

今、お気に入りの賛美です↓